日本芸能史上最大のブームを起こした『ピンク・レディー』

ピンク・レディープロフィール

70年代アイドルのピンク・レディー

生年月日 ミー:1958年3月9日
ケイ:1957年9月2日
芸能界入り スター誕生!
キャッチフレーズ
レコードデビュー 1976年8月25日(ペッパー警部)
主要音楽祭受賞歴
(最優秀新人賞)
主要音楽祭受賞歴
(大賞)
1978年日本レコード大賞(UFO)
1978年日本歌謡大賞(サウスポー)
ゴールデン・アロー賞
受賞歴
1977年話題賞
1978年グラフ賞
主要映画賞受賞歴
(主演賞、助演賞、新人賞)
紅白歌合戦出場回数
(2025年まで)
4回
代表曲
()内はオリコン最高順位
76年:ペッパー警部(4位)
76年:S・O・S(1位)
77年:カルメン’77(1位)
77年:渚のシンドバッド(1位)
77年:ウォンテッド(指名手配)(1位)
77年:UFO(1位)
78年:サウスポー(1位)
78年:モンスター(1位)
78年:透明人間(1位)
78年:カメレオン・アーミー(1位)
79年:Kiss In The Dark(37位)※
他多数
※アメリカでの楽曲のため順位はビルボードランキング

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目次

デビュー前から2人組だったピンク・レディー

ピンク・レディーは、アマチュア時代に『スター誕生!』に出演しデビューしたのですが、それ以前からヤマハボーカルスクールという音楽スクールに通い、2人で行動を共にしていました。
アイドルグループは、兄弟などの特別な事情がない限り、デビューする際に本人の意志に関係なく組まされることがほとんどで、デビューする前から2人組であったピンク・レディーはかなり珍しいケースと言えます。

多くのアイドルを輩出した『スター誕生!』についてと出身者の一覧
今まで書いてきたアイドルの松田聖子と宮沢りえを除き、ピンクレディーの2人、山口百恵、桜田淳子、森昌子、中森明菜、小泉今日子の7人には共通点があります。それは、全員『スター誕生!』出身であることです。ということで、ここで1度『スター誕生!』に...

セクシー路線でデビュー

スター誕生!に出場したときのピンク・レディー(当時は本名の根本美鶴代と増田恵子で出場)は、オーバオールを着た素朴な感じの女の子という感じでしたが、デビューの際は過激な衣装を着たセクシー路線のアイドルに変貌しました。
このことは一部で問題となり、『スター誕生!』の審査員だった声楽家の松田トシなどは猛反発したそうですが、当の本人たちはセクシー路線に大きな抵抗がなかったようで、この路線は見事に大成功します。
ピンク・レディーの2人は、花の中三トリオよりデビューが3年から4年遅いわけですが、年齢は彼女たちより1つ上なため、正統派路線で勝負することは難しいと当初から思っていたのかもしれません。

昭和アイドルの生年月日一覧表
当ブログで個別記事を書くアイドルの生年月日と現年齢の一覧です。名前の部分をクリック/タップすると個別記事に飛ぶので目次として利用してください。その他のアイドルを含めた生年月日のデータは、『20世紀アイドルの完全データ集』から御覧ください。
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日本芸能史上最大のブーム

セクシーな衣装もそうですが、あまり深い意味を持たせない阿久悠の歌詞、独特なダンスなどは、当時の日本歌謡界において斬新で、ピンク・レディーはデビューしてすぐに話題となり、デビュー2曲目の『S・O・S』から10曲目『カメレオン・アーミー』までで通算63週オリコンランキング1位を達成します。(平均すると1曲で7週1位を獲っっている)
特に1977年8月の第3週から1978年2月の第3週までは、28週のうち27週にわたりピンク・レディーが1位を獲得するという異常事態と言えるほどの過熱したブームを巻き起こしました。
当時のピンク・レディーは余りにも忙しすぎて、『夜のヒットスタジオ』のリハーサルに出れず代わりに山口百恵と桜田淳子がリハーサルを行ったことすらあったそうです。(当時の山口百恵も十分殺人的スケジュールだったはずだが・・・)

21歳で引退した伝説のアイドル『山口百恵』
山口百恵プロフィール生年月日1959年1月17日芸能界入りスター誕生!第5回決戦大会合格キャッチフレーズ-レコードデビュー1973年5月21日(としごろ)主要音楽祭受賞歴(最優秀新人賞)-主要音楽祭受賞歴(大賞)-ゴールデン・アロー賞受賞歴...

山口百恵との直接対決

70年代後半にピンク・レディーと双璧をなすようなアイドルだった山口百恵とは、1978年のレコード大賞で直接対決となりました。

ピンク・レディーの表題曲は『UFO』
山口百恵の表題曲は『プレイバックPart2』

どちらも、後にお互いの代表曲となる楽曲での勝負です。
ピンク・レディーは、この直接対決を見事に制しアイドルとして初めてレコード大賞を獲得、一方、山口百恵がレコード大賞を受賞することは終にありませんでした。

主要音楽祭の受賞者一覧!賞レースに翻弄されたアイドルたち
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紅白辞退とアメリカ進出

レコード大賞を受賞するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった1978年、ピンク・レディーはNHK紅白歌合戦の出場を辞退します。(ピンク・レディーが70年代に紅白歌合戦に出場したのは77年の1回のみ)
理由は、日本テレビが紅白歌合戦の対抗番組として放送した『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演するためでしたが、当時のアイドル歌謡界で紅白歌合戦の出場辞退などは考えられず、一部で批判の声が上がります。
更に翌年の1979年以降は海外(主にアメリカ)へも進出しましたが、このような行動は、既存のファンの想いとはあまりにも差があり、日本でのピンク・レディー人気は一気に沈静化していくのでした。

そして解散・・・

1980年になって本格的なアメリカ進出を果たし、日本での活動が限定的となったピンク・レディーでしたが、アメリカで大きな活躍ができずに帰国。
この頃には日本でのピンク・レディーブームは完全に過ぎ去っており、日本の芸能界におけるピンク・レディーの居場所は既にありませんでした。
結果、帰国から間もなく解散を宣言し、1981年3月31日の解散コンサートをもって活動を停止します。
更にこの解散コンサートも、先に解散したキャンディーズに比べ盛り上がらなかったと酷評されるなど、ピンク・レディーの活動終盤はあまり有意義なものではありませんでした。

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ピンク・レディーのアメリカ進出は失敗だったのか?

ピンク・レディーの海外進出は失敗だったと言われていますが、実際は一定の活躍をしていました。
全米デビュー曲の『Kiss In The Dark』はビルボード(日本で言うオリコン)で最高37位を獲得し、日本人歌手としては坂本九に次ぐヒットとなりましたし、全米3大ネットワークのテレビで冠番組も持っていました。
しかし、日本人が期待していたほどの活躍はできず、また現地での扱いも決して良いものではなかったそうです。
そして、何よりも日本のファンを蔑ろにしてしまったことが最大の失敗だったと思われます。

解散後の活動

ピンク・レディーの解散後、ケイ(増田恵子と改名)は解散直後の1981年に『すずめ』がヒット、ミー(MIEと改名)は1984年に『NEVER』がヒットと、芸能活動を続けていた2人でしたが、あまりにもピンク・レディーのイメージが強すぎたためか、解散後の2人が芸能界で大きな活躍をしたとは言い難い状況でした。
これはどのアイドルにもある苦悩なのでしょうが、日本最大のブームを起こしたピンク・レディーの2人は、この苦悩をもっとも受けた人になるかもしれません。

期間限定?の再結成

ピンク・レディーは、1984年の期間限定再結成を皮切りに、1989年、1996年、2003年と再結成を繰り返しました。
そして2010年には解散を撤回し、ピンク・レディーとしてテレビ出演することも多くなります。
近年はピンク・レディーとしての活動は減っていますが、2017年にはレコード大賞の舞台で久しぶりにスペシャルメドレーを披露し、見事に還暦復帰を果たします。(当時ケイは60歳、ミーは59歳)

ピンク・レディーはなぜ流行り、なぜ失速したのか

ピンク・レディーが所属した事務所は、証券会社と保険会社を脱サラした2人が設立した新興の芸能事務所だったため、当時の芸能界にあった”過去のしきたり”などにとらわれない活動を行い、その斬新さがブームの要因になったと思われます。
しかし一方で独自路線が行き過ぎ、NHK紅白歌合戦の出場辞退やアメリカ進出など、既存のファンの気持ちを大切にしない行動が目立ち、人気の低下を極端に早めてしまったのでしょう。
また、そもそも論として、加熱しすぎたブームは冷めるのも早いという事実も人気低下の原因だったと思われます。

阿久悠がピンク・レディーを通じて伝えたかったものとは?

ピンク・レディーの楽曲は、よく歌にされる“愛”とか“別れ”といった普遍的なものではなく、正直に言うと何を歌っているのかよく分かりません。
何かを比喩的に歌っているというわけでもなく、詞だけを見れば『だから何?』という感想しか出てこないような楽曲ばかりなのです。
ピンク・レディーの楽曲で作詞を担当した人物と言えば、日本レコード大賞を5度受賞した稀代の名作詞家『阿久悠』なわけですが、彼はピンク・レディーの楽曲で何を表現したかったのでしょうか?

まずピンク・レディーがデビューした当時の状況を振り返ってみましょう。
ピンク・レディーがデビューした1976年は、『およげたいやきくん』(1975年12月25日発売)が空前のヒットとなり、シングル売り上げ450万枚以上という未だに破られることのない大記録を打ち立てます。
この『およげたいやきくん』は子供向け番組(ひらけ!ポンキッキ)に採用されヒットするのですが、当時は第二次ベビーブーム(1971年から1974年)が起き子供が増え始めた時期なので、こういった楽曲がヒットするのはある意味必然だったわけです。(1976年は『ビューティフル・サンデー』も200万枚以上を売り上げる大ヒットとなっている)

しかし、これほど大ヒットとなった『およげたいやきくん』に対し、歌謡界は大きな反応を示しませんでした。
所詮は子供向けの楽曲だと相手にしなかったのでしょう。
ただ『歌は時代を映す鏡』を心情とする阿久悠だけは、この『およげたいやきくん』の大ヒットに反応を見せます。
それが、ピンク・レディーの楽曲にある深い意味を持たない詞の数々だったわけです。
そして実際にピンク・レディーは、子供たちからの高い支持を受け一大ブームを巻き起こすのです。

更に阿久悠は、作詞家でありながら『歌詞なんて何でもいい』というところまで表現していた気がします。
一大ブームとなっていた頃のピンク・レディーであれば、おそらくどんな作詞・作曲であっても大ヒットとなり、詞や曲の内容よりもピンク・レディーが歌うことに意味があるという状態まで世間は加熱していました。
阿久悠は、そんな“おかしな時代”すらも投影させ、意味不明な歌詞を書き続けたのではないかと私は思います。
あれ程のブームになれば、もはやピンク・レディーの存在が時代そのものだと阿久悠は詞を通して言いたかったのではないでしょうか?

以上、個人的な見解を交え、阿久悠がピンク・レディーの楽曲で伝えたかったことを考えてみました。

私の好きなピンク・レディー楽曲

個人的に、ピンク・レディーの楽曲でこれと言って好きなものはありません。
ピンク・レディーの楽曲は、良い意味で1曲1曲を聴かせるタイプの楽曲ではないので、全体的に雰囲気を楽しんでいます。
その中で意外に好きな楽曲を1つ挙げるとするなら、

Kiss In The Dark

です。
これは前記した通り全米デビューのシングル曲で、日本では大きなヒットはしていませんが個人的には好きな楽曲です。

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クイズ

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【更新履歴】
2018年03月24日:記事の作成
2019年08月28日:ブログの移転
2020年12月30日:『阿久悠がピンク・レディーを通じて伝えたかったものとは?』の項目を追記
2023年02月23日:SNS情報の記載、動画の埋め込み
2023年05月26日:アンケート内容の変更
2024年01月04日:オススメ商品の削除

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